──大石田町のご出身でいらっしゃるそうですね。
どんな少女時代を過ごされたか聞かせていただけますか。
父は小学校教諭、母は農協勤務という共働きの家庭で、祖父母を幼い頃に亡くしましたから、私は鍵っ子でした。一人で絵本を読んだり、ピアノを弾いたりするのが好きな子どもでした。中学時代は、新体操に夢中になりました。私たちの女子体操部は、どうしても郡大会を突破できなくて、県大会出場が悲願でした。お正月も返上して、練習に打ち込み、3年生の時、ついに県大会に出場できたんです。会場は酒田でした。私はそこで初めて、一人の力ではなくて、みんなの力が一つになることによって生まれる、奇跡的な推進力というものを学びました。
高校は、山形北高の音楽科に進学し、毎日3時間〜5時間はピアノに向かうという日々を過ごしました。自分は何者なんだろう。どこから来て、どこへ行くのか。それは青春時代に誰もがつきあたる漠とした思いです。私は、何者かでありたい、と思ったんですね。表現する人でありたい、と。15歳の私の頭に浮かんだのは音楽でした。周囲の反対を押し切り、中学3年の夏に受験準備を始めました。なんとか合格はしたものの、多くの才能の中で、挫折感も味わいました。それでも、中学、高校時代に、何かに打ち込んで夢中になるという時期を持てたことは幸せでしたし、その体験はすべて血となり、肉となったと感じています。
音楽大学を受験したのですが、浪人しても希望の大学には合格できなくて、悩んでいた頃、父が懇意にしていた頑固で芯のあるおじいさんが、私にこんなことを言ってくれました。「努力して、一つの道を追究することは、人間の美しい姿である。しかし、いくら努力しても実らない時も人生にはある。そういう時は、ちょっと方向転換してみると、新たな道が開けてくるのではないか」。私は気持ちが軽くなりました。それで、文学部に進学することにしたんです。
|