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 Home > バックナンバー > 「庄内庭園探訪」 > 土門拳記念館を訪ねて


月刊「SPOON」2003年8月号掲載

飯森山公園に無数の紫陽花が咲き誇る7月初旬の日曜日、土門拳記念館を訪れました。酒田市出身の写真家、土門拳さんがこの世を去って13年。
記念館竣工から、ちょうど20年。館内には、折から、理事長の相馬大作さんがいらっしゃり、記念館建設当初の思い出話の数々を聞かせてくださいました。

:::::  その5 :::::
酒田市

中庭の中央には、イサム・ノグチ作
「土門さん」が佇んでいる。
彫刻の足元を流れる水は
大理石の敷石から 湖に注ぐ。

 土門拳記念館の開館にあたり、初代館長に就任した写真家の三木淳は、「土門師も、生まれ故郷にこのような記念館を設立して貰い、男子の本懐と存じておると思います」(土門拳著『手 ぼくと酒田』酒田本の会)と書いている。「男子の本懐」。女の私には、この言葉が輝くほど羨ましい。男には男の、女には女の、どれだけ背伸びしても届かない領域がある。
  昭和49年(1974)、酒田市出身の写真家、土門拳が、第一号の酒田市名誉市民に選ばれた。土門は、顕彰式の席上で、「私の全作品を酒田市に寄贈しよう」と申しでた。この時、相馬大作市長は「土門さんの郷土を愛されるひたむきな心に私は非常に感激し、ご厚意に報いるにふさわしい環境と建物をなんとしても実現せねばと心に誓った」(相馬大作著『草鞋をつくって二十年』)。
  しかし、51年10月29日の酒田大火。この思わぬ大惨事は市民の心を消沈させ、行政は町と人々の復興、救済に全力を注ぐことになる。 五十三年、建設省(当時)が打ち出した地方定住圏構想の補助枠を基として、飯森山周辺を文化公園として整備し、写真展示館を建てるというプロジェクトがスタートした。
  翌54年9月、70歳の土門は、脳血栓で倒れ、入院。意識が回復することなく11年を生き、平成2年(1990)に死去した。何の返答もないままベッドに横たわる土門に「兄さん、いい加減に死んでくれよ。皆がくたびれているんだから」と、弟の牧直視が声をかけると、土門の目から大粒の涙がこぼれたという。医学的には、あるはずのない意識が、あるいは戻る瞬間があるのだろうか。その強靭な魂は、生と死の間(はざま)をどんな思いでさまよっていたのだろうか。
  55年、土門拳記念館建設委員会が設置され、構想や建設資金の募金活動が検討されていった。開館は、酒田市制施行五十周年の58年と決まったが、資金の調達は難航した。市民だけではなく、全国の写真愛好家にも呼びかけたことで、徐々に実現へと進み出した。絵画や彫刻、書道といった他の芸術分野に較べ、歴史の浅い写真の評価が確立していないことを憂慮していた人々が、「写真芸術のレベル向上、砦としての写真記念館」を切望し、協力を惜しまなかったことも追い風となった。
  こうして、日本初の写真記念館、写真家個人の記念館としては世界初の土門拳記念館の建設は、具体化していったのである。
  設計は、土門の希望で、上山市の斎藤茂吉記念館などを手掛けた建築家、谷口吉郎に依頼される予定であったが、急死したため、長男の谷口吉生が担当することになった。
  谷口は、土門の足跡を「建築に凝縮すること」の不可能を悟り、「修景を整え、作庭を行って、新しい環境を周辺に作ること」に配慮した。また、「作品のテーマと表現に適するようにと、過剰な意匠を避け」、「外観は、風土と深く関わることにより、この地に記念館が建てられたことの意義を、人々が読み取れるものとし、室内は、簡潔な意匠を背景として、作品の印象だけが強められる設計を意図した」という。
  計画の中で、「展示室とラウンジ」は「全く異なる場所」に配置した。そのため、展示室は「写真の保存上、光のはいらない」ようにし、その他は「明るい人工池にあたかも浮いているように配し、作品鑑賞の余韻を楽しむ静かな場所とした」(『日本の風景(3)』所収、谷口吉生文「土門拳記念館の建築」)。飯森山を借景に、2万平方メートルの人工池に浮かぶ直線的な建物の外壁は、ポルトガル産の花崗岩である。
  この設計で、谷口は、建築界最高の賞といわれる第九回吉田五十八賞を受賞、建築家としての名を不動のものとした。
  設計が進むと、土門の友人たちが参画に名乗りをあげた。彫刻家のイサム・ノグチは造形を、グラフィックデザイナーの亀倉雄策は銘板とポスターを、草月流三代家元、勅使河原宏は庭を、それぞれ無償で製作し、提供した。
  その後に来館した詩人、草野心平は、記念館に面して造られた人工池を「拳湖」と名づけた。その書が刻まれた石が湖畔に置かれている。
  この友人たちが、土門とどれだけ深い親交の同志であったことか。相馬大作氏は、記念館と、こうした人たちとの関わりを「友情出演」と語る。
  土門拳記念館には、ふたつの庭がある。
  中庭の庭園、その中央には、イサム・ノグチ作「土門さん」が佇んでいる。彫刻の足元を流れる水は、大理石の敷石から「拳湖」に注ぐ。
「土門さん」は、土門拳その人を感じさせる存在感ある彫刻として屹立している。
  十二世紀の書物『作庭記』に「立石は乞わんに従う」の一節がある。この石に出会ったノグチが、「石の声」の「乞わん」に添うて、自らの心を造形したのだろう。土門とノグチ、二人の精神の行き交いなくしては成り立たない空間である。
  もうひとつの庭園は、視聴覚室から望む勅使河原宏の作庭「流れ」である。桃山期の庭に関心を抱いていたという勅使河原は、「建物の直線とは対照的に全部曲線」で表現しようとした。(阿部博行著『土門拳 生涯とその時代』法政大学出版局)
  枯山水を呈して敷き詰めた石は、自らが最上川に出向いて集めたもの。築山に植栽した熊笹は、地下茎が出
て、土地を丈夫にするため、砂地に適した植物。アクセントとして配したのは、遊佐町の月光川石。この石組は、どこか不老不死の蓬莱を思わせる。「仕切りになるようなもの」として植えられた柳が風になびく。融通無碍(ゆうずうむげ)の境地が感じられる庭である。
  この記念館を取り囲む「拳湖」の対岸は、紫陽花公園である。品種日本一を目標に植えられたその数は、およそ94種。紫や青の中に咲く白い花は、ひととき、夏の陽ざしをやわらげてくれる。
  紫陽花の語源は「集真藍(あずさあい)」、藍の色が集まっているの意がある。
  ここから水に浮かぶ土門拳記念館を臨むと、「土門のためなら」と集まった人たちの篤い信頼にふれる思いになる。
  完成を見ることなく逝った土門拳。この光景に、どれほどの感嘆をあげたことか。『古寺巡礼』にある「日本人たる写真家として、その使命を全うできたぼくは、仕合せものである」の言葉が重なる。
  この場を立ち去ろうとした振り返り際、私には、土門の切るシャッターの「カシャ」という渾身の音が聞こえた。
ここから水に浮かぶ土門拳記念館を臨むと、「土門のためなら」
と集まった人たちの篤い信頼にふれる思いになる。
 
財団法人土門拳記念館

所在地酒田市飯森山2-13(飯森山公園内)
電話&FAX0234-31-0028
開館時間午前9時〜午後4時30分
料金一般420円、学生210円、
小中100円(団体料金は別途)
4月〜11月無休(展示替えのため臨時休館あり)
12月〜3月毎週月曜(祝祭日は開館、翌火曜休館)

 飯森山公園内にある酒田市写真展示館「土門拳記念館」は、昭和49年、写真家、土門拳が酒田市名誉市民第1号に選ばれたのを機に、全作品を酒田市に寄贈したことから建設準備が始められた。開館は昭和58年10月1日。日本初の写真美術館、世界初の個人写真記念館として誕生した。設計は谷口建築設計研究所。中庭の彫刻「土門さん」はイサム・ノグチ作、エントランスホールの銘板と開館時のポスター、チケットは亀倉雄策がデザイン、視聴覚室前の庭園と中庭は勅使河原宏による作庭である。土門拳の全作品約70,000点を収蔵し、その保存を図りながら、順次公開している。酒田市が管理する飯森山公園に咲く紫陽花も美しい。
 
高橋まゆみ=取材・文 板垣洋介=写真


■「庄内庭園探訪」バックナンバー


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2003年5月号[酒田市]
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2003年8月号[酒田市]
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